この親にしてこの子あり
この言葉を使う時は大概、
親が社会的に優秀だとされる人の子が、何かしら成果を挙げたときに使われますよね
逆に、あまり評価されない生き方をしている親の子どもが問題を起こして
「やっぱり!」ってな時にも…
先日、この言葉を思い出した出来事がありました
仕事帰りの夜道、自転車で帰宅途中に信号のないT字路を右折しようとした時のことです
甚平を着た2歳くらいの小さな女の子が目の前に飛び出してきました
街灯も薄暗く見通しの悪いところとはいえ
自分の不注意に一瞬で(ヤバイ!)と思い慌ててブレーキ!
でもその瞬間、その女の子が
「ごめんなさい!」と言ったのです
あまりに大人びたその声に
「ど、どうぞ!」と道を譲ると、小さな声で
「びっくりした~…」と呟きながらテケテケと小走りに通り過ぎていきました
そして女の子が向かった先には
ダラダラと歩く(恐らく)若いパパがいました
ブレーキ音や娘の声が聞こえていなかったのかもしれないけど、その後も夜道で手をつなぐこともなく、振り向くでもなく、ただ歩いていました
この親だから。だからこそ。
パパはもしかしたら考え事をしていて気づかなかったかもしれない
いつもはちゃんと見ているのかもしれない
『親』の役割を担ったからといって、何でもすぐに完璧にできるわけではないから、ハタから見ている私たちが一瞬の出来事を切り取って責め立てるのも違うかなという思いはある
(内心オイオイと思ったけど)
ぼんやり歩くパパと健気についていく女の子
果たしてどちらが『大人』なのか…
自分のことと照らし合わせて実感するのは
『人格のレベルは年齢ではない』
なかちゃん自身も、ししょー(息子/人生の師匠)から多くのことを教えられ、向かない母親業をなんとか遂行してきました
大人だからって完ぺきではないから誰かに育ててもらうことも必要で、それが自分の子どもという場合もあるでしょ
その親が成長するためにその子が必要だとしたら
この親
“だからこそ”
この子あり
あのパパの元にあの子が生まれてきたことにも、きっと意味があるんだろうな
言葉を多面的に解釈する大切さを小さな女の子から教わった、未完の大人のひとりです
日々是学びでございますな…